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エッセイ「共に育ち、共に生きよう」
「広瀬川への想い」を千葉栄三さんが、随時、執筆します。
千葉栄三(ちば えいぞう)さんのプロフィール
 評定河原沿いの青葉区霊屋下で生まれ、広瀬川を庭のようにして育った。
自閉症の長男の将来、親無き後を考え16年前に脱サラ、会社法人「サンコー」を設立、知的障害者支援活動(実習生の受け入れ、バザーなど)「杜の都共育ネット」の代表。活動の資金源の会社経営の傍ら、講演 活動、月刊誌などでエッセイ執筆。
詳しい履歴はこちらをクリックしてください。 このエッセイに対してのご感想はこちらまでお願いします。

秘湯、うなぎの湯温泉
2008.5.2
 今頃お花見の話?と笑われそうですが、4月20日の日曜日、家族でお花見に出かけました。
お花見より、温泉に入るのが本当の目的で、花より温泉、でしたが(笑)
 
 鳴子温泉のちょっと先の、中山平まで行ってきました。
桜の花は咲いてましたが、まだ満開ではなく、濃いピンク色のつぼみだけの桜の木も沢山ありました。
4月の最終日曜日あたりが満開で見頃なんでしょうね。 
 
 観光シーズンは大渋滞でどこもかしこも、人、人、人で混雑して、食堂や売店も行列でうんざりなのに、人影もまばらで、駐車場も売店もガラガラ。 全てが貸しきり状態でした。
道路も渋滞もなくスイスイ、予定時間よりかなり早く目的地に着きました。
 
 青空の下でお弁当を食べるつもりでしたが、風が冷たく肌寒いので、車の中で景色を見ながら食べました。
 
 そして、タオル持参でお目当ての秘湯温泉「うなぎの湯」に、入湯料一人800円を払って入りました。
お湯が、とろんとしているので「うなぎの湯」と言うらしく、糊が入ってるの?と思うほど、とろとろして透明で不思議なお湯で、身体もすべすべ、とろとろ、体中、じんわり、ぽかぽかです。 
 
 長男と内湯から露天風呂へ。
人の気配が全くしないので、「ここも貸し切りみたいだね」と話しながら露天の岩風呂に行くと、
なんと、10人近くの中年のおっさん達が、隅の方で微動だにせず、お湯の音も立てずに、岩に寄り添ってじっとしていて、なんとも異様な光景でした。まるでガラパゴスの海トカゲみたいでした(苦笑)
 
 実は、脱衣所は男女別ですが露天は混浴なので、女性客が入ってくるのを、じっと待っているようでした。
女湯の内湯からは、露天風呂には男性客がいない様に見せかけるよう、たくみに場所を選んでるみたいでした。
 
 そうとも知らず長男と私は、じゃぶじゃぶと誰もいない真ん中に行ったので、おっさんたちの敵意に満ちた視線を浴び、その異様な雰囲気に耐え切れず、長男と私は内湯に移動。
内湯は誰もいないので、貸しきり状態。かけ流しのきれいなお湯に、贅沢に気持ち良く浸かりました。
 
 娘に混浴の話をすると、「女性専用が別にあるので、そっちに入ったのよ」と笑っていました。
混浴には、全身が梅干のようなおばあちゃんが入りにいったようなので、「梅干の湯」(笑)
 
 そんなことがあったり、楽しい?お花見と日帰り温泉でした。
 
 

自閉症、母子家庭でも前向きです!
2008.4.19
自閉症で特別支援校に通っている高校生の男の子は、母親と弟と3人暮らしの母子家庭。
お母さんの新聞配達で、その家計を支えている。朝刊、夕刊、集金、拡張の仕事もあり忙しそうだ。
 
 中学生の弟も、高校進学の学費準備のために、と4月から新聞配達を始めた。 
「兄を一人にできないので、一緒に配達してます。兄は記憶力がいいので配達順路をすぐに覚えて、とても助かります。」と、大人びた口調で自閉症の兄を自慢した。 
 
 弟は、お母さんに代わって買い物や家事や、お兄ちゃんの世話もしているらしい。
家では自分が、「まるで父親」の役割をしている、と笑う中学生は、くったくがない。 
 
 彼は、明るく懸命に生き抜いてきたお母さんの背中を見て育ったに違いない。 
私は彼が、自閉症の兄を自慢にしたことに、いたく感激し、嬉しくなって、たくさん褒めてあげた。
 
 後日、彼のお母さんから手紙が届いた。 
今どき「手紙」、が彼女らしいと思いつつ開封した。
 
「下の子が、お父さんにほめられたようで、チョー気分が良かった、と喜んでました。私も同じです。
 私は余裕がなくて、ほめることを忘れてました。これからは、ほめてあげますね。」と結んであった。  
「バイトでお金をもらったら、私に口紅を買ってあげる、と言ってます。たまには化粧くらいしてほしいみたいですね」ともあった。 
 それを書いている時の、お母さんの笑顔が目に浮かんで、私の口元が思わず緩んだ。
 
 いつも目にするジャンバー姿のお母さんが、口紅をつけてドレスアップした姿を想像したが、
どうしても思い浮かばなかったが、その時は、弟君と一緒になって、「きれいだね」と褒めてやろう。
彼女のリアクションが楽しみだ(笑)
 
 母子家庭、自閉症、と困難なことがあろうとも明るく前向きに生きているあの家族に拍手!
私も、やる気と元気をもらいました! 
 

空しかった入学式
2008.4.18
ある小学校の入学式。議員さんや町内会、PTA役員など沢山の来賓や祝辞、そして
在校生の歓迎の合唱などもあり、沢山の花や飾りなどで、華やいだ雰囲気の中、無事に終了。
 
 新入生の記念撮影も終わり、みんなが帰って人気のない学校。
すっかり静まりかえった校舎の教室で、まるで隔離されたかのように、
もう一つの入学式(特別支援学級)が始まった。 
 
 普段なら、多動で、奇声を発したりの3人の自閉症の新入生だが、
いつもとは違う様子に緊張したのだろうか・・・
可哀想ななくらいに固まっていた。               
 
 淡々と進む特別支援学級の入学式は、午前中の私語やケータイ音で、度々ざわめいた普通学級の入学式より、よぽど厳粛で静粛だと思った。
 
 来賓も、祝辞も、在校生からのお祝いもなく、
見事なまでの素早い進行だが、校長、教頭は、「やるべきことをやった」という感じで式を済ませると、
「いろいろと忙しいので・・・」とあわただしくスリッパの音を立てて、立ち去った。
 
 式の終わり頃、新入生の女の子のお父さんが、ハンカチで目をぬぐった。
 
先生はそれを見逃さず
「涙ぐんだお父さんもいて、さぞ感激されたことでしょう」と満足気に最後の挨拶に付け加えた。   
 
 若くて凛々しく、今風のその子のお父さんが、人前で涙とは、は意外だった
ところが、私の隣に立ってたそのお父さんが、声を抑えて、「悔しい!」と一言。
 
 お父さんの涙の本当の理由を、先生は勘違いしたようだった。 
でもこの先生達に、これから6年間、お世話になるのだ。 
 
 私は、先生との意思疎通の必要性を、より強く感じた。 

一人ぼっちの卒業式
2008.3.6
卒業式が終わり、約170名の卒業生とその父兄、在校生もみんな帰って、
ひっそりとした学校の教室で、特殊(特別支援)学級の卒業式が始まった。 
 
 卒業生は、私の長男一人だけ。
それでも教頭が司会をして、校長の挨拶などがあり、午前中の式と同じ手順で進行された。
 
 自閉症の息子だが、緊張した様子で神妙に卒業証書を受け取り、式は、あっという間に終わった。
息子には、何も問題はなかった。
 
謝恩会が控えているのであろう、先生達は妙にテンションが高く、なにか気ぜわしくて忙しかった。
 
 私の息子だけ、別途にやるのは学校側の配慮だと、良く解釈したいが・・・・
普通学級には交流学級の級友や、お世話をしてくれたり、息子の教室に顔を出してた子も沢山いる。
みんな仲間だと思っていたのだが・・・・ 
 
「きょうは、特別に、君だけの貸切の卒業式です」の言葉は、恩着せがましく響いた。
入学式も同様だったので、体育館でみんなと一緒に卒業式に参加させたいのが、親の真の気持ちです。
 
妻は、この日のために美容院を予約して、見たこともないような、誠意一杯のおしゃれをしたのに・・・
せっかくなので、人気のないの学校だけど、記念撮影をして、思い出にして帰宅しました。
 
 自閉症の息子の、小学校の卒業式でのことでした。

老々介護の、おばあさん
2008.2.2
 先日、ショッピングセンターに買い物に行った時の、駐車場でのことです。
 
 コンパクトな軽乗用車が、駐車スペースに中々入れられず難儀していた。
見ると、女性ドライバーで、初心者マークが真新しい。 「バックで入れるのが、苦手なんだろう」
と思い、見るに見かねて、私はおせっかいだと思ったが、バックを誘導し、うまく駐車ができた。
 
 その間、後部座席のおじいさんが、何度も頭を下げて、私にお礼をしているのが窓越しに見えた。
 
「嫁さんが、じいさんを連れて買い物か、感心、感心。」と思いながら、立ち去ろうとしたら、
 運転席から、慌てたように女性ドライバーが、お礼を言いながら出てきた。
 
 外から見た感じで、女性ドライバーは「嫁さん」と思ってたら、なんと、「おばあさん」だった!
 
「有難うございます、お陰さまで、助かりました。 免許を取ったばかりなので・・・
 年寄りの二人暮しなんで、夫(おじいさん)の介護のために、どうしても車が必要なので・・・
 この歳になって、初めて免許を取ったのですが、車庫入れが苦手なので、本当に助かりました」
 
  よく見ると、若葉の初心者マークのほかに、
 オレンジの紅葉の、高齢者ドライバーマークも貼ってあった。
 
  たったこれだけのことで、こんなに何度も何度も、深々と頭を下げるおばあさん。 
 私は、その姿に老老介護の実態を見た思いがして、やり切れない思いになり、胸がキュンとなった。
 
  何か手助けしたい、と思ったが、それ以上は無理だ。 
 とっさに今、自分が出来ることはないか、と思い、手にしてた「あんこ餅」のパックを差し出した。
 
 店の入り口のイベントでの餅つき大会で、振る舞いでもらった「あんこ餅」、割箸も添えてある。
 
「さっき、タダでもらったんです。つきたてだから、まだ柔らかいし、入れ歯でも大丈夫ですよ。
 すぐ食べて下さいね。あわてて食べて、喉に詰まらせないよう(笑)、小さくして食べるんですよ。
 オレ、酒飲みなんで、甘いものが苦手だから、もらってくれると、助かるんですが・・・」
 
 ちょっと驚いた顔の、おばあさんだが、すぐに笑顔になって、丁寧に両手で受け取ってくれた。
 
 私は、ちょっと大げさに「助かりました〜」
「これで、お互い様、持ちつ持たれず、 餅(もち)つ持たれず、ってシャレなんだけど・・・」
 
 そう言うと、おばあさんは、ちょっと考えて、「あら、あら、あら、あら」と言って笑ってくれた。
 
 「見ず知らずの人に、こんなに親切にしてもらって、それに比べて、うちの・・・・」
  私は、「おばあちゃん、そのあとは、言いっこなし」と言葉をさえ切り、
 「運転、気をつけてね」と言い残して、すたこら、その場を立ち去った。
 
  チラリ、後ろを振り返って見ると、まだおばあさんが立って、こっちを見ていた。
 
 「老老介護のおばあさん、頑張れ!」って、言ってあげればよかったかな・・・・
 でも、気持は通じたと思うので、
  頑張ってる人に、むしろ「頑張れ」って、言わなくて良かったのかな、とも思った。

正月に働く人への感謝の気持ち
2008.1.1
母の部屋の引き出しを整理していたら、熨斗袋やポチ袋が、沢山出てきました。
 
 正月にタクシーに乗った際は、降りるときに運手さんに「正月からご苦労様」と言って「お年玉」を渡すのが、母の作法でした。
 また、正月に配達など仕事で家に来た人にも、何かを渡していたようです。
 
 それで、いつも熨斗袋を沢山用意していたことを思い出しました。
 
 私もそれを引き継いで、タクシーの運転手さんに渡しますが、わずかな金額ですが、涙を流して喜んでくれる人もいます。 「お金はこうやって使うもんだよ」との母の言葉が聞こえるようです。
 
 また、自宅にも事務所にも、ドリンクを年末にどっさり買い込んで、正月の配達や業者さんに1本づつ渡します。
 正月に仕事をしているせいか、みなさんの険しい表情が、一瞬驚いて目が点になり、私の顔を見て、そして笑顔に変わります。 別人のような、とてもいい表情になりますね。
 
 バイトの学生さんは、きょとんとした顔をしますがね(笑)
「正月にバイトして、よかった、っす。ラッキー!」と喜んで帰ったバイトさんの背中に向かって
「もう一息だから、頑張れよ〜!」と言うと、わざわざ立ち止まって、ドリンクをかざして見せてくれました。
 
 年始早々、今年も私の「おせっかい」がスタートしました!

サンタさんは、お父さん?
2007.12.4
 小学生の低学年の子供たちが、「サンタさんは、本当にいるか?」を賑やかに話していた。
 
「サンタなんか、いないよ、作り話だよ」と誰かが言うと、女の子が泣き出した。
すると、「サンタさんは、本当にいるんだよ!いるんだ、ってばあ!」と、一人の男の子が頑張った。
 
 私は「ふふ〜ん、子供は夢があっていいなあ」と、次の展開に期待し聞き耳を立てていると
 
「サンタの正体は、うちのお父さんだよ、おじいちゃんの時もあるけどね♪」
 
「でもね、それ、知らんふりしないとダメだよ。来年から来なくなると思うから、サンタさんがいると思ってる振りをするんだ。 
だって、ぼくんちは、セコムで勝手に家に入れないし、煙突だってないし・・・」
 
 その後、どうなるかな?と興味を持っていると、
 
 突然、子供たちは学芸会の時のような、作ったような笑い声で、競うようにして笑い始めた。
 泣きべそだった女の子も、一緒になって笑っていた。
 
「うちは、お母さん。 この前、おもちゃ屋さんで買ってきたのを隠してたよ!」
「うちは、お父さんが 「たんしんふにん」 だから、おじいちゃんだと思う!」
 
「たんしんふにん、って、な〜あに?」
「知らないの? お母さんが言ってたけど、それって、気が楽になること、なんだよ」
「う〜ん、そういうことなんだあ〜」
 
 私は思わず吹き出してしまった。
 
子供たちの、クリスマスを楽しみにしている無邪気な様子を見て、私がプレゼントをもらったような楽しい気持になりました。
 

ゴミ拾いで生徒指導〜男子高校生の場合
2007.12.1
 出勤途中、朝の渋滞で信号待ちの車の多い道路の歩道で、ゴミ拾いをしている高校生を見かけた。
学校の体操着姿だが、いかにも「体操着に着替えました」といった感じの、ちょっとワルそうな男子が数名、大きなビニール袋を持って、仕方なさそうに軍手でゴミを拾っていた。
 
 その前方には、彼らの様子を見ている腕組みをした先生がいた。いかにも「生徒指導」の先生だ。
「はは〜ん、彼らは何かをやらかして指導を受け、それでゴミ拾いをしてるんだな〜」と察しがついた。
 
 信号が青になったので、私は車を走らせその場を通り過ぎたが、
しばらくして忘れ物に気がつき、道路を迂回し、20分後にまたあの道に戻った。
 
 丁度、さっきの高校生たちはゴミ拾いが終ったところのようだった。
半透明の大きなゴミ袋の半分以下くらいだが、空き缶などの入ったゴミ袋を持って、先生の前に集まっていた。
 
 すると、あの生徒指導の先生が、怒ったような顔で、男の子の頭を手で、ぐりぐりした。
でも、すぐに笑い顔になって、何かを言いながら、次々と他の男の子たちの頭を、ぐりぐりしていた。
 
 そのうち、高校生達は、口を空けたり、腹を押さえたり、大笑いをしているのがわかった。
そして、先生は一人の男の子の肩に手をまわし、顔を覗き込んで何かを言ってる様子だった。
ゴミ袋を片手に男の子は、小刻みに首を縦に振って、何やら納得している様子。
 
 私の推測だが・・・
学校で良くないことをした高校生が、生徒指導の先生の下で、反省で歩道のゴミ拾いをさせられ、
先生も生徒もお互いに納得、無事に解決したのだろう、と思った。
 
 あの先生と高校生たちの会話は聞こえなかったが、すばらしいやり取りがあったに違いない。
忘れ物をしたおかげで、私は朝から、いい光景に出会いました。
 
 彼らのジャージの背中に、学校名が大きく書いてあったので、どこの高校かわかる。
「お陰様で、道路がきれいになり、感謝します」とでも学校にお礼の電話を入れよう、と思った。
 
 これから電話帳で、あの高校の電話番号を調べます。
彼らと先生を、できるだけの言葉で褒め称えてあげたい、と思ってます!

真面目で優秀だから「うつ」になれる
2007.11.2
出勤前の朝刊、週刊誌広告の見出しで、
 
「明けない夜はない」に目が留まりました。
 
 まじめで、優秀だからこそ、鬱になれる、「うつ」という人材を生かす!
 
 これを読んで、とても嬉しくなりました。 
 
 うつは、まじめで優秀。納得、納得。ものすごく、わかります。みんな、自信を持とうぜ!
 
 もっと書きたいけど、地下鉄に乗る時間なので、取り急ぎ、この辺にしておきます。
 
 行ってきま〜す。 仕事、頑張ってきま〜す

「うつ」に理解のない上司がいる限り、機会があれば、また出したいと思います。

障害者自立支援法で、苦しんでいます
2007.10.31
障害者自立支援法以来、助成金が減って、その上自己負担が増えて運営が厳しくなった作業所では、
休憩時に飲むポットのお茶は、1杯30円の金券を買って飲んでいました。
 
 それが、所長さんの配慮で、無料で飲めるようになったので、作業をして一休みの時には、
安心してポットのお茶が飲めるようになりました。
 
 親は今まで通り有料(1杯50円)ですが、作業をしてる障害者達が、休憩時にお金の心配をしないで、
ポットのお茶をのめるので、有難い話でした。
 
 久々の朗報で、嬉しくなりましたが「やはり、運営が厳しいので・・・」と
また有料に戻りました。
300円で、11枚綴りの「お茶券」を買い、1杯飲むたびに支払います。
 
 有料は残念ですが、1ヶ月だけでも無料で作業所のお茶が飲めたことは、有難いと思いました。
厳しい運営の中、何とかしたい、という所長さんのお気持ちに、感謝したいと思います。

敬老の日に「お掃除」のプレゼント
2007.9.25
 障害者自立支援法で、自己負担金が増えて以来、私たちの経済状況が余裕のないものになっています。
 
 作業所で仕事をすれば、工賃(月給)をもらえます。 
施設や作業所は、運営が厳しくなり、各種行事を中止にしたりして、いろいろ節約しています。
なので、給料(工賃)の額は少なく200円程度の日当です。(時給ではありません、日当、200円です)
 
 それを政府は、賃金をもらうことは「受益、応益」だと考えています。1日働いて200円ですが・・・
最低賃金の法律は、障害者には適用されません。
施設や作業所を使用しての「受益者」なので、自己負担しなさい、と、お金を払うようになって、1年半になります。
 
サラリーマンが会社で仕事をすると給料がもらえます。それは貴方の「応益、受益」なので、受益者です。
会社は貴方に受益をもたらしてるので、会社を使用しての「受益者の自己負担」として、
会社に使用料を払って下さい、と言うのと同じことだと思います。
 
 工賃(月給)より、その「自己負担金」の額のほうが多いのです。
私の長男(自閉症)は成人ですが、毎月、2万円近くのお金を払って、清掃の仕事をしています。
何人かの仲間は「自己負担金」が払えず、来なくなってしまいました。
 
 敬老の日に、一人暮らしのお年寄りに「お祝いの品」を買う余裕がないので、
今年は、お得意の「清掃作業」をプレゼントすることにしました。
 
 これ見よがし、みたいに思われるのが苦手なので、人目のつかない早朝に行ってきます。
それに早朝に済ませると、そのあと自分たちも、どこかに出かけることができるので一石二鳥です。
 
 軍手に長靴、首にタオルを巻いて、庭の草取りに、さっそく、行ってきました。
朝起きて、きれいになった庭を見たら、あのおばあさんは、驚くでしょうね♪
 あちこち蚊に刺されましたが、さっぱりして、気分は爽快です!
                                      

心優しい運動会
2007.9.5
いよいよ運動会の100mの徒競走が始まります。
ピストルではなく、掛け声と手拍子での「よ〜い、どぉん!」で一斉に・・・いやバラバラ気味にスタート。
 同時に応援の歓声が上がる。だが、それが突然悲鳴のようなどよめきに変わった。
最後尾に走っていた小柄な子が転倒したのだ。
起き上がれない。必死の形相でもがいているが、起きられない。
 異様な歓声に、先頭を走っていた子がそれに気がついて、なんと、なんと戻ってきた。
他の子達も気がついて次々と戻ってきた。
そして転倒した子を起こし、心配そうに見ながら、みんな一緒にゴールに向かってゆっくり走り出した。
 みんな何がしかのハンデイを持ってるので、ピョコタン、ピョコタンとスムーズな走りではないが、一生懸命走った。
そして、順位に関係なく、完走した全員の首に職員が作った紙製の金メダルがかけられた。
 来賓も、祝辞も、万国旗もテントも、何もない障害者の施設の運動会だが、真心たっぷりの、心優しい運動会でした。

自閉症と共に〜父親の思い
2007.7.21
作業所に通っている自閉症の長男が、本屋に行くと言うので、私は付き合った。
目的の本を買い、独特の動作ながらも機嫌のいい長男と連れ立って書店を出ると、「失礼ですが、このお子さんのお父さんですか?」と見知らぬ男性から声をかけられた。
 
 大手のCD店で、挙動不審?と思われたのか、あらぬ疑いをかけられて辛い思いをしたことがあったばかりだ。
 
「はい、そうですが、すみません、何かご迷惑でもおかけしたのでしょうか?」とっさにお詫びの言葉が出てしまう父親の私。
自閉症の息子のこととなると、詫びる事が習性になってしまった自分に、情けなさと不安な気持ちが入り混じった。
 
 その男性は慌てるように「いいえ、違うんです。私はこの春から自閉症のお世話をしている新米教師です。地下鉄で通ってますが、
車内で息子さんを何度も見掛け、学校の子と同じ自閉だ、と気がつきました。何事もなければいいな、という衝動で何度も声を掛けようとしましたが、できませんでした。
自閉の子は突然声を掛けられるとパニックになる場合があり、私は経験が浅いのでその対応に自信がなく、見ているだけにしました。
そのことが申し訳ないという気持ちと、地下鉄の車内ではとても立派なので、それをお伝えしたくて」と言葉を結んだ。
 
 担任でも作業所の関係者でもないのに、と私は驚いたが、胸が一杯になった。
親の知らない所で、見知らぬ人が温かく見守っていてくれる、その現実を知っただけで、幸せな気持ちになりました。
 

                                                                                 
当たり、はずれ
2006.4.1
当店の駄菓子コーナーは子供達の社交場。 この時期になると「私、はずれ」「僕は当り」などと賑やかになることがある。駄菓子のクジ引きの話ではない。新しい担任の先生の話だ。 どうやら、母親同士の会話を聞きかじり、友達同士で話し合っているようだ。 担任が「はずれ」と言ってる子に 「そう言う君のお母さんは、当り?はずれ?」と意地悪な質問をしてみると、ちょっと考え「おこづかいをくれたり、ゲームを買ってくれる時は「当り」で、ガミガミ怒る時は「はずれ」、だから、両方!」と返ってきた。そして「店のくじ引きで「はずれ」た時は、どうする?」に、「お金がある分、当たるまで、頑張ってもっとやる。クジって、当たったりはずれたりするから楽しいんだよね」と明るい。「君は才能がある分、担任の先生が「当たり」と思えるよう、頑張れるよね、いろんなことがあるから楽しいんだよね」と言うと、「オフコース!」と元気な返事。 子供は親が思っている以上に、頼もしく成長しているが、まだ親の影響は大きい。 担任を「当たり、はずれ」と思うのは親の自由だが、心の中に留めておきたいものだ。 「はずれ」と風評のある先生は謙虚な気持ちで対応を検討してもらえれば、と思った。 「当たり、はずれ」は世の中のつき物だと思う。   


亜炭(メタセコイア)
     2006.1.30    
今年の冬は特に寒く、暖房用の燃料の灯油の購入に忙しい。 燃料、と言えば昭和30〜40年代の仙台は、「亜炭」が主流だ  った。      「亜炭」とは「石炭」になる手前のようなもので、メタセコイアやブナなどが堆積して何百万年もかけてできた、木の化石でもある。 経ヶ峰(花壇の向かいの断崖)付近に、その断層が見られる。また、お霊屋橋付近の河床でも見られる。メタセコイアは巨大な熱帯植物で、太古の仙台が、アマゾンの密林のように熱帯の巨木が林立していたのか、と、氷の張った広瀬川を眺め不思議な気持ちにもなる。 
                                                                                                         
   当時、仙台の一般家庭のほとんどは、風呂の燃料として「亜炭」を使用していた。「亜炭」は火の付きが悪く、「すぎっぱ」(枯れた杉の葉)を燃やし、その中に亜炭を入れると、じわじわと亜炭が燃える。  炭スゴ(俵)を持って、瑞放殿にすぎっぱ拾いに行くのが、子供の仕事でもあった。夕方になると、あちこちの家で風呂焚き始めるので、すぎっぱの燃える煙と亜炭の煙がたちこめ、夕焼け空は、「もや」がかかったような、独特の風景となる。 そして、亜炭の燃える匂い。 カラスが鳴いて、その煙と匂いがすると、遊んでいる子供達は、「おみやげみっつ、タコみっつ」などと言いながら、家に帰り始めたものだった。  

    金洗沢、現在の太白区土手内(聖和学園近辺)は、亜炭の採掘場が豊富にあり、その地下は亜炭坑道が無数に走り、トロッコで坑道入り口まで運んでいた。 馬車も待機して、近くには鍛冶屋もあった。何本ものトロッコのレールを見て、「汽車が走ってるのか」と言って、笑われたりした。      「亜炭」は仙台名産の高価な「埋れ木細工」の原材料でもある。 それを風呂の燃料にしていたのだが、石炭より安く、木炭を強くした程よい火力と、中々燃え尽きないので、沸かした風呂は温泉のようだった。  お霊屋橋近辺の広瀬川が、メタセコイアの密林だった、と思うと、太古のロマンを感じる。  
 


芋煮会の光景
2005.10.30
秋になると、広瀬川の河原は、芋煮会を楽しんでいる人達で賑やかだ。 「芋煮会」とは、里芋、肉、野菜、こんにゃくなどを、味噌か醤油で仕立てた鍋料理で、バーベキューのようなもの。人が多いほど楽しい。牛越橋付近の河川敷は、学生や職場のグループなど、様々なグループで賑やかで楽しそうだ。突然、熟年の男性の声で「お〜い、ママ」。彼より若い女性が「社長、まだよ」。どうやら、飲食店のグループのようで、賑やかに音楽かけながら、さんまを焼いていた。 その近くではブルーシートを広げた学生達のグループ。ゲームをしながら地味ながらも楽しそうだ。 アウトドアグッズで本格的な、若い夫婦と子供の家族のグループもいる。お父さんが張り切っていて鍋奉行のようだ。広瀬川の清流とともに、そんな様子を見ているだけで、心がなごむ。  やがて、撤収、引き上げの段になると、各グループも様々だ。 学生のグループは、ゴミを拾い、そして、川で鍋を洗い始めた。家族連れのグループは、汚れた鍋、食器類を洗わずに片付ながら「川の水を汚さないようにね」と子供に話しかけてるお母さんの声。 熟年のグループは、「魚か鳥のエサ」という声と、笑い声と共に去って行った。焼け焦げたさんまが河原に放置。 様々な、広瀬川での芋煮会の光景でした。


広瀬川の長町川
2005.9.30
現在の太白区長町は、仙台開府以前は原野と谷地、と言い伝えられている。慶長の1617年頃、伊達政宗が、江戸への出発地の宿場として「長町」が開設された。その後、伊達藩はもちろん、奥地の藩の諸大名の参勤交代にも利用され宿場町として繁栄した。 その長町付近の広瀬川に向かい、名取川から水を引いたのが「木流掘」。山形県境に近い二口峠近辺の木を切り出し、仙台に運ぶために作られた。 木流堀から水運で運ばれた材木は、広瀬川に集積された「木場」は、現在の武道館沿い下の「鎧淵」にあった。近辺に、佐々木材木店などの材木屋さんがあるのはその名残だろうか。 当時、その付近から今の広瀬橋の流れを「長町川」と称した。また、宮城郡の国分と、名取の境界だったので「片瀬川」とも称した。 広瀬川は、場所によって様々な呼び方があるが、それだけ歴史があり、大切にされてきた川の証だと思う。


歴史深い広瀬川沿い 2005.8.31

広瀬川沿い、特に愛宕橋から広瀬橋近辺は、比較的お寺が多い。明治になって、神仏分離で廃寺になったり、道路の新設や拡張で、敷地が狭くなったりなくなったりの運命をたどっている。歴史は古い。愛宕大橋のたもと、土樋側の広い道路は墓地だったし、その南の真福寺は本堂は西、墓地は東、と道路によって明治時代に分割された。 宮沢橋から上流を眺めると、左手に宋禅寺というお寺が見える。宋禅寺と中州の間の広瀬川は穏やかな流れで「淵」になっている。その場所を、かつては「宋禅寺淵」と称してた。この寺に「ニワトリ塚」があり、寛文13年の文字がみられる。およそ330年前に建立された、ということだろう。(塚の由来は鶏と猫の話だが、詳しいことは、またの機会に) 「塚」と言えば、その近くの武道館向かいに「兜塚古墳」がある。慶長7年(1607年)の家臣の反乱や、源義家の戦いに由来している、との説もある。 ともあれ、この一帯の広瀬川の穏やかな清流が、寺社建立の地の理由かな、と、しみじみと古の歴史を思い浮かべ、改めて広瀬川に思いをはせてみたくなった。




続うなぎ、藤助淵 2005.7.22
源兵衛淵のほかに、牛越橋付近の藤助淵にも「うなぎ」の伝説がある。 慶長六年、伊達政宗が仙台城築城、その城壁の石を国見峠から切り出し、牛にひかせて広瀬川を越え、仙台城に運んだことが「牛越」の地名の由来。そこにできた橋なので、牛越橋。(大正時代までの牛越橋は、現在の橋のやや上流にあった。気をつけて見ると、レンガ積みの橋脚跡があるかも。) その近辺の深みを「藤助淵」という。    昔、この近くに藤助、という男が住んでいた。ある日、釣りをしていると、川の底から「とうすけ・・・とうすけ・・・」と呼ぶ声がした。「藤助はおれだが、なんぞ用事か」と聞き返すと「おれはこの淵に住む大うなぎだが、明日の晩、賢淵の大蜘蛛が攻めてくるから、黙ってそこに立っててくれ。ただし、決して声を立ててくれるな。声を立てると負ける。必ず声を立てないでくれ」と言った。  約束の晩に行って見ると、すさまじい水音を立てて合戦が始まった。 あまりにも壮絶さに藤助は、思わず「あっ!」と声を立ててしまった。 それっきり淵は静寂に返った。翌朝、その淵に負けた大うなぎの首が浮いていたので、藤助はそれを人目見て、狂い死をした、という。(三原良吉氏の廣瀬川の伝説参照)     ちなみに、大崎八幡神社の西側の「うなぎ坂」は、城壁用の石材運びの牛が、あまりにも険しい坂道なので、うなりながら通ったので「うなり坂」と呼ばれたのが、いつしか「うなぎ坂」になった、といわれている。  広瀬川の伝説には、度々うなぎが登場するのは、うなぎが沢山生息していたからだろう。私の子供の頃(昭和30年代)、評定河原橋のたもと付近に、竹の「つと」のしかけに、早朝見に行くと、おもしろいように鰻が入っていたのを覚えている。それを土用の丑の日に、蒲焼にして家族で頂いた。 国産で天然物で新鮮なうなぎだ。今ならば、ちょっと贅沢なグルメな話。 ひざ小僧が接ぎ当てで繕ったズボンを着せられていた時代だったが、あの頃が妙にうらやましく思える。

源兵衛淵の鰻 2005.7.20
「賢淵の蜘蛛」とくれば「源兵衛淵の鰻」を忘れてはなるまい。瑞鳳殿から東北大学正門に向かう途中のお霊屋橋。渡りきると米ヶ袋。右側の崖下の深みを「源兵衛淵」という。その淵の上には、かつて(延宝天和の頃)堀 源兵衛友重の屋敷があり、淵の名前の由来になった、と言われている。ちなみに当時の米ヶ袋には鷹(たか)部屋があり、彼は鷹匠頭三百七十石として、伊達政宗に仕えた名人だった。   さて、昔、お盆になると米ヶ袋に来るお坊さんがいたそうだ。盆棚のお下がりをご馳走になるため、毎年やってくるが、年をとった様子もなく、毎年同じような顔をしていたそうだ。 ある年、淵に毒を流して、大うなぎをとる話をしていると、お坊さんがそれを聞きつけ「盆中の殺生は止めて下され」と必死に止めようとした。その日は、団子を振舞われて帰っていった。 源兵衛は、ちょっとあやしい、と不思議に思い、お坊さんの後をつけて行くと、淵に吸い込まれるように消えてしまった。「うなぎがお坊さんに化けて、止めさせようとしたんだ」、と一同に話して、うなぎを獲るために淵に毒を流した。すると、大うなぎが浮かんできた。腹を割くと、きのうお坊さんに振舞った団子が出てきた、という。(柳田国男「魚王行乞談」) また、初夏のある日、賢淵の大蜘蛛が源兵衛淵に攻めてきて、大うなぎと格闘した、という話もある。 広瀬川には、様々な伝説があり、歴史を感じさせられる。そんな思いで眺めると、広瀬川もまた一味違って見えてくる。 大うなぎの話は、夏になると、年寄りから聞かされ涼しくなったことを思い出す。

賢(かしこ)淵と三居沢 2005.6.29
 八幡町の文殊菩薩堂から広瀬川を見下ろした所に、かって八幡町スケートセンターがあった。(高校時代、体育の授業で何度も利用した。)崖の下の河川敷のような場所で、広瀬川がすぐそばを流れていた。そこから下流に向かう川の流れは絶壁にぶち当たって、崖をえぐり深い淵を作って、鋭く蛇行し、牛越橋にと流れる。牛越橋を渡ると、三居沢だ。三居沢は古いお不動さんで、寛永の碑が建っている歴史のある場所。また、明治時代には、広瀬川の落差を利用して水力発電が作られ、紡績工場などもあったり、近代文化の発祥の地でもある。市営バスの川内営業所があり、今は交通公園になったが、そこは動物園だった。小学校の遠足のコースにもなっていて、仙台の団塊の世代にとっては「三居沢」とは「動物園」の代名詞でもある。ちなみに長町の八本松に競馬場が、すぐに廃止され、長続きしないことを「長町競馬」とも言う。 さきほどの深い淵は、賢(かしこ)淵と言って、プールがなかった時代、水泳をするにはうってつけの場所だった。小さい子供には深すぎるので、牛越橋付近の浅瀬に先生達が石を積んで堰をつくり、プールのようにしてくれた。賢淵の主は、年寄の大きな蜘蛛だそうだ。
 今野さんのじっちゃんの話だと、昔昔、釣りをしていた男のそばに、蜘蛛が寄ってきて、男のすねに、べとべとしたものをつけるので、男は指でぬぐって傍らの柳の大木になすりつけると、また蜘蛛が男のすねにべとべとをくっつける。また指でぬぐって柳の木になすりつける、こんなことが何度も繰り返され、そのうち柳の大木は大きな音をたて、淵に吸い込まれるように倒れ落ちた。そして、静まり返った淵の底から「かしこい、賢い」と聞こえたんだと。それで「賢淵」と言うんだどしゃ。それにしても、その蜘蛛はしつこくて、いんぴんだかりだっちゃねえ。
 夏、三居沢の動物園に行って、賢淵で水遊びをし、土手にいる自転車のアイスキャンデー屋さんから、木箱の中のアイスドリアンを買って食べるのが、至福のひと時であった。八幡町から7円出して市電に乗って帰る車中、「おもせがったな、まだ来っぺな」と満足気な子供達。ズボンの尻の継ぎ当てなんか気にしない。当時の広瀬川は、今で言うディズニーランドに匹敵してたかも。


向山の虚空蔵さん 2005.5.30
広瀬川の大橋と評定河原橋の間の経ヶ峰の大絶壁は、ここが百万都市か、と驚くほどの壮観さがある。蛇行した広瀬川は経ヶ峰の崖を侵食し、幾層もの凝灰石の絶壁を形成。深い淵もあり、人間を拒否してるかのようだ。さらに交通の不便さもあって、気軽に訪ねる人も少ないようだ。(地元の私でも、地学で地層の勉強の時間に、先生の引率で見に行っただけ)そのせいか、神秘的でもあり、いろんな言い伝えや、歴史があるようだ。 「仙台築城の初め、本丸の地に虚空蔵堂があって、中世には虚空蔵堂と称し、堂内に土仏の千体仏があった。これがセンダイの地名の前進と言い伝えられた。築城の際、千体仏は、片平に移し、虚空蔵堂は経ヶ峰の崖の上に移し、二代忠胸宗が瑞鳳殿霊屋を造営する時に、向山に移した。(郷土史家、三原良吉氏著書による)」。これが、向山にある虚空蔵(こくぞう)さんで、経ヶ峰は、移転する前にあった所だから、元虚空蔵と言うのだろう。 虚空蔵さんは、地味な感じがするが、趣や歴史、そして不思議な威厳を感じる。 平成の大合併で全国各地に新しい地名ができた。その地の歴史を調べるのに、大きな手がかりになるのは地名である。その地名が、その時のフィーリングや合理的だけでできたとしたら、後世の人たちが歴史を調べるのに、さぞや苦労することだろう、と思った。 経ヶ峰にまつわる地名はほとんど残っているので、その歴史やいわれも、興味深くわかりやすい。何よりも当時の思いがはせて、親しみを感じる。思わず向山の虚空蔵さんに「何回も引越しして、この地に来てくれたんですね、ご苦労様、有難うございます」と声を掛けてみたくなった。   



姓と名の順序 2005.4.14
食事の前に日本人は、いただきます、と「自然の恵みや、作ってくれた人」に感謝する。日本人は、あらゆることに感謝して生きているので、八百万の神と言うほど、沢山の神様がいる。そして家族中心主義の思想がある。「いただきます」を英語に訳すのは難しいが、それに相当するのは、欧米で食事の前に、食事を与えてくれた「神」に感謝してお祈りをすることだと思う。キリスト教は一神教で、神様は一人だけ。生まれた子供が、その神様の教えを守れるよう願い、神に誓う。それは家族との誓いではなく、神と子供の誓いなので、子供の名前が先にくる。誓ったのが、ジョージなので、ジョージ・ブッシュとなるのだと思う。日本は、「神」ではなく「家族」と共に生きるので、子供の名前は苗字の次にくる。純一郎さんは、小泉さんの家に生まれたので、小泉・純一郎になるのだ。儒教や仏教に同様の思想があるので、中国や韓国でも日本と同様に、姓の次に名前がくる、そう考えると、中国と韓国とうまくやっていける糸口も何かあるだろう、そんな気持ちになった。私は、それぞれの国の成り立ちや、文化、風習、歴史、人格を尊重し、それを理解したことを相手に知ってもらうことも大切だと思った。 

一人だけの卒業式 2005.3.30
 数年前の小学校の卒業式、式が終わりみんなが帰ったあと、特殊学級の卒業式が行われた。今年の卒業生は、我が家の長男一人だけ。人気のない、ひっそりとした学校で、たった一人の卒業式は淋しいな、と思いながら式場となる教室に向かった。すると、教室の中は、障害を持った在校生たちが一生懸命作ったのだろう、花飾りや絵などで埋め尽くされ、華やいだ雰囲気。いつもはジャージ姿の特殊学級の担任の先生たちは正装して、よそ行きの顔をして式が始まるのを待っていた。式は、校長先生の祝辞から始まり、教頭先生が司会。午前中の普通学級の卒業式と同じ段取りで、粛々と進行、無事終了した。交流学級の先生たちもお祝いに駆けつけてくれ、花束の贈呈まであった。特殊学級入学当時は三人だったが、二人は病気で亡くなり、たった一人の卒業式になってしまったが、あの二人の分までお祝いするかのような、暖かい手作りの卒業式に感謝の気持ちで胸が一杯、有難く思った。だが、他の6年生と一緒に、普通に卒業式に参加できたらな、と本音が欲張って脳裏をかすめた。 普通でいられることが、何でもない毎日が、どんなに幸せなことか、と改めて思い知ったような、そんな一日だった。   

2個のゼリーを3人で分ける方法 2005.2.1
 小学4,5年生くらいの女の子が3人で、クリーニングを出しに店に来た。家の手伝いであろうと思い、ご褒美にお菓子
をあげることにした。プリン、ゼリー、ジュース、バナナがそれぞれ2個づづあったので、「どれか好きなの選んで」と差し出すと3人とも「セリー」に手を伸ばした。1個足りない。私は「みんなで分けて食べてね」と、そこにある物を全部持たせてやった。
 後日、クリーニングを引取りに、また3人やってきた。「この前は、有難うございました」とお礼を言うので、「あれを、どんな風に分けたの?」と問うと、「ミックスしてフルーツポンチにして、みんなで分けて食べたの」とニコリ。「ちょっと変な味になったけど、みんなでたべられたから、おいしかったよ」と続いた。私は、2個のカップゼりーを3人でどんな方法で分け合ったのか興味があったが、この飽食の時代に思いもよらない答えに驚いた。そして子供たちの柔軟な発想に思わず感心した。全員が平等にカップゼリーを食べられる方法を考えたのだろう。平等に、がすごい、と思った。
 あの子供達がゼリーのことで、真剣に話し合った様子を想像して、思わず笑みがこぼれ、その優しさが嬉しく心にしみた。どうすれば、みんなが幸せな気持ちになれるか、それぞれお互いに思いやりの気持ちを持って、考えたことだろう。
 広瀬川の河川敷に捨てられたゴミ。そのビニールやプラスチックを、野鳥が餌と間違えてついばみ、被害を受けたりしている。
 また、違法駐車防止で、「どうして私だけ駄目なの。みんながやってるからいいでしょう」と言って違法駐車をしている人を映したCMがあった。
 あの3人の女の子のような気持ちを持てば、そんなこともなかろうに。正に考え方の違いが人間性を変え、社会を変えるものだ、と実感した。

知的障害者の成人式を祝う会 2005.1.13
 市役所から自閉症の長男に成人式の案内状が届いた。有難いが、8000人もの新成人が参加する式典に、知的障害者は参加するのは困難で、市の成人式ではなく、障害者の会が主催の「成人を祝う会」に参加した。会場での新成人達は緊張のせいか、堂々とあくびをしたり、走り回ったり、大声を出したり、相変わらずのマイペースだが,以前よりはかなり落ち着いたように見えた。多動やパニックを、外見が普通なので、事情を知らない人から「親の躾が悪い」と叱責されたりもするが、この会場は、お互い様同志。お互いの理解と優しさで、誰の遠慮も気兼ねもなく、みんなで祝うことができ、幸せを感じた。
 彼等は冠婚葬祭などの出席に縁遠く、この日こそ!と親は子供に心を込め精一杯のおしゃれをさせた。「自分のウエディングドレスを娘が結婚式で、が夢」と言ってたお母さんは、それを娘の成人式用に自分で仕立て直した。別の人は「子供と一緒に死のう、と思ったことがあるけど、暇だったのね」と笑い飛ばした。みんな元気だ。若いお父さん、お母さん、負けないで!と更に続いた。私は知的障害者と、その家族への理解が深まることを願い、行動しようと思った。

挨拶は心を開く 2004.11.9
 11月初旬、愛宕橋から宮沢橋、広瀬橋に沿っての広瀬川の情景は、思わず誰かに話したくなる衝動にかられる。とりわけ、鮭が川の流れに逆らって産卵のため必死に上流を目ざす姿を目にすれば、感動すら覚えるだろう。
 しかし、、ほぼ垂直にそそり立つ河口堰が鮭の行く手を拒み、越えるのは難しく何度もチャレンジして水流と共に押し戻される鮭の頑張りにエールを贈りたい。
 その近くで、ユリカモメやサギが羽を休めている。せめて鮭の産卵が終わるまで、彼等の餌食にならなければいいのだが、と心配した。それとは別に、川岸近くにはカワセミ。用心深いのか、落ち着かないのか、忙しいそうな鳥だが青緑色の鮮やかな羽に、しばし魅せられる。広瀬川は「野鳥の宝庫」を実感。さあ、次は白鳥の飛来の番。

 その白鳥は家族愛が強い鳥で、数羽で飛び立つのは家族単位のように見える。広瀬川はそれほどでもないが、白鳥の飛来で有名な伊豆沼はかなりの数の大混雑。白鳥が飛び立つ際には助走をつける。そのためには滑走路になる水路が必要だ。注意深く観察していると、混雑の中に飛び立つ時に、「コアーコッコ」と優しい声で鳴く、まるで挨拶をしているかのように鳴く。すると、どうだろう。まわりの白鳥が道を譲り開けてくれる。中には助走をつけて飛ぼうとしている最中、他の白鳥につつかれたりすることもある。混雑の中を挨拶もしないで突っ走り、迷惑をかけた若い白鳥だろう、と勝手に解釈している。
 満員の地下鉄などで、無言で人混をかきわけ降りようとしている人の行為が、横柄に感じる、それと同じだと思う。無言だと、降りるどころか、押し戻されたりさえする場合もある。運が悪ければ、罵声を浴びたりもするだろう。
 反対に、「すみません」と低姿勢に言いながら降りようとしている人には、見知らぬ人達でも道を開けて協力してくれる。こんな時には特に、声掛け、挨拶の大切さを感じる。

 「挨拶」と云う漢字には「お互いに心を開く」という意味も含まれている。。挨拶、つまりお互いに心を開きあうことは、人間関係の中で最も大切なことの一つであり、人間としての基本でもあると思う。「あの人は、感じがいいね、いつも挨拶してくれて」と日常会話に多々出てくるように、挨拶一つで人間性を評価される場合もある。トラブルがあったり気まずい
思いをした相手から、翌日「おはよう」と明るく挨拶されると、安心と嬉しさを感じる。更に、その思いやりを受け止め、前日の自分を行為を謙虚に反省したくなる。
 「挨拶」の大切さを実感する瞬間でもある。

 一人一人が、きちんと挨拶のできる人間であれば、世の中のぎくしゃくも、かなり少なくなるのでは、と思う。そして挨拶がなければ人間関係は成り立たない、昨今の社会情勢を鑑(かんが)みるとそのことを重ねて思う。
 白鳥が飛び立つ時の鳴き声が「挨拶」かどうか確信はないが、私はそう思いたい。
 

非行少年と大人の役割 2004.10.20
 帰宅途中、コンビニの駐車場でカップ麺を食べている若者を見て、A君を思い出した。小学生だったA君は夕方になると、私の店でカップ麺を買い、外のベンチで一人、無表情で食べ、決まって「おかわり」で2個目を買って食べていた。どうも夕食にしている様子。ちょっと可愛そうになり、私は「デザートサービス」と言って袋菓子やゼリーをプレゼントするようになった。そんなこともあってか、A君は私と話しをするようになった。父子家庭でアパート暮し。父親の帰りが遅く一人きりが多いとのこと。 「ただいま」と学校から帰っても、夜遅くまで人の温度はない。一通りの物はそろっても、寂しいのでは、と思った。 それでも、父親が帰るまでに、洗濯物を整理したり、ゴミ出しの準備をしてる、と胸を張って話してくれた。 ある日、小学生のA君が、ゴミ出しの日を間違えて出したところ、近所のおばさんに「母親のいない家庭はだらしない」と嫌みたっぷり、厳しく言われた、と憤慨してやって来た。 家事を手伝っている、と言っても小学生の男の子。まだ幼い。寂しさが陰を作り、表情を暗くさせてしまい、どこか大人びている。 さっきのおばさんは、それが気に入らないようで、「A君とは遊ばないように」と他の人に話している様子。目の敵にされているようだ。 近所に友達がいなくなったA君は、判断力のつかないまま、好ましくない仲間やグループに近づいたり、危険な遊びに、温度を感じるようになったのだと思う。 大人の考え一つが、近所の子供を傷つけ、自分の子供の判断力の芽を摘み取ってることになったのでは、と危惧する。 しばらくして中学生になったA君が友達と来た時は、金髪、ピアス、腰まで下げたズボン、いかにも「非行少年」の容貌、その変貌に驚いた。 「学校で先生にも無視され、居場所がない、卒業したら土木作業員になる。引っ越す」と報告に来たのだ。   「A君はいつも一人で頑張ってきたよな。ほめてあげたいよ。A君のお父さんだって、A君のことを心配しながら仕事頑張ってるしな」と言うと、友達に「だろう、来て良かったろ」と、うなずきながらニコリ笑い、店を後にした。 今までの環境う乗り越えて、それが幅広い情緒として育ち、成長して欲しい、と後姿を見送った。コンビニの駐車場で食事をしている子供達が、つい気になってしまった帰り道、昨今の社会状況で仕方ないが、周囲の大人達の無責任さ、逃げ、大人の役割を考えよう、とする人がどれだけいるのだろうか、と寂しく思った。  

日常の積み重ねを大切に 2004.10.10
 出かける時に「行ってらっしゃい、気をつけてね」との掛け声は、朝のあわただしい時でも習慣になって、形式的であっても日常の積み重ねになっている。 英語などの外国語で同様の表現を探すのが大変なのは、日本独自の習慣で、 武士の妻が、三つ指ついて「いってらっしゃいませ」からの伝統だと思う。
 前日、上司に叱られたお父さん、きょう苦手科目テストのお兄ちゃん、友達とトラブルのあったお姉ちゃん、出かける前に「行ってらっしゃい、気をつけて、頑張ってね」と声をかけられれば、形式的であろうとも、少しは元気をもらえるだろう。 日本の誇れる習慣だと思う。
 以前、出勤の父親が車をバックした瞬間、誤って2歳の我が子を後輪で即死させたニュースがあった。痛ましい事故だったので、ずっと脳裏に残っている。母親は台所で後片付けをしていた時だった。お父さんは車で出勤、幼児はその辺をヨチヨチ歩き、お母さんは台所で家事。何か、家族がバラバラの動きをしているように思える。朝の見送りは30秒もかからないだろう。 いくら忙しくても、その気があればできるはず。 仕事や勉強に向かう人に、感謝と情愛の気持ちが、日常生活の積み重ねとして根付いていたら、お母さんは家事の手を休め子供を抱っこしながら「行ってらっしゃい、気をつけてね、帰りは遅いの?」などと言いながら見送り、お父さんは慎重に車を出したことだろう。 見送りをすれば事故にならなかった、と言うことではなく、形式的でも朝の見送りが習慣として根付いていれば、少なくとも安全確認ぐらいは出来たと思う。事故を起こした家庭を責めるのではなく、形式的であっても、長い間引き継がれて来た、良き習慣が毎日の積み重ねとして根付いていれば、その一端が、事件や事故の防止に役立つ要因になるのでは、と思っている。
  お年寄りを大切にしたり、オレオレ詐欺、虐待にも、どこか通じるような気がする    川の清流を守るのも、日常の良き積み重ねが大切だ、と実感として思う。  

祖母と同居の子 2004.9.14
川、特に広瀬川に対して、私はどうしてこんなにも愛着を感じるのだろうか? 川のすぐ近くで生まれ育ち、言わば川と「同居」してたからこそ、こんな気持ちにが芽生えたのだろう、と自分で勝手に分析したりしている。                                  一人暮しだった母の所へ私達家族5人が押し寄せ、18年前から同居。年月を重ね、 元気だった母も入退院の繰り返しで、ついに病床の身。不自由な生活になった 。   常日頃、お年寄りには優しく大切に、どんな状態、病気になろうとも家族全員で看病するもの、との考えを、日常の生活に積み重ねてきた私達家族。それこそ家族みんなで母の世話をしたが、もっぱら私の妻の仕事になり、頼りにして妻に任せきり状態だった。そんな妻が留守の折、思いがけないことがあった。 子供達は妻のすることを見ていたのだろう、祖母の痛い所をさすってあげたり、食事は食べやすいように、ままごとのように細かくして、ぎこちないが一生懸命やってくれた。トイレの世話までしてくれ、祖母が「まだ若いのに、こんな汚い事までさせて、ごめんね」と申し訳なく言うと、「ばあちゃん、全然、汚くないよ。ばあちゃんだって、私が赤ちゃんの時、おむつ換えてくれたんでしょう。気にしないで。それより、あの時は、どうも 。」 夜遅く帰宅した私に、母は声を詰まらせながら、作り笑顔で話してくれた。 子供達は、旅行をしても「留守番」をしているばあちゃんへの「おみやげ」は必ず買って来る。よそのお年寄りを見ても、視線が優しい。 祖母と同居してたからこそ、お年寄りに対して、優しい気持ちが芽生え、接することができるのだと思う。 祖母と同居の家族生活は、弱者に対するいたわりの気持ちをも育み、芽生えさせてくれた貴重な18年間だった。  同様に、広瀬川と「同居」してたから、川に対して、いたわりの心で接するようになったのか、と重ねて思う。  もうすぐ敬老の日。ばあちゃんの好物だった吉岡屋さんの和菓子を墓前に供え、改めてお礼を言うつもりでいる。  

奥の心を見よう 2004.9.10
 毎年決まったように広瀬川の水量が、異常に少なくなる時期がある。その光景に、川の生き物の心配と、殺伐とした状況に落胆させられるが、それは農業用水に使用するためで、その水が、私達人間の為の、食料の生産に必要不可欠なものなのだ。 短絡的に川の水の渇水を嘆く前に、心を深くし、その奥の心を読んでみる努力も必要だと思う。
 小さな店をやってた頃、やんちゃそうな5才くらいの男の子が、「おじちゃん、絵、かいたんだよ、見て!」と、わけのわからない絵を得意そうに差し出した。 「へえー、この絵、何かいたの?教えてくれないかなあ」、すると、「あのね、ぼくね、ころんだの!」 と話しも、わけがわからない。ちょっと待ってよ、ころんだ話しじゃなくて、絵の話しだよ!と言いたいところを我慢して、「えっ!ころんだの!それは大変だ!怪我しなかったの?」 と、驚いてみせると、男の子は、小さな腕のかすり傷を突き出して、「ここから血が出たんだよ!」と大事件のように説明した。 「そうか、大変だったね、おじちゃんがいたら、お薬塗ってあげたんだけど、いなくてごめんね。傷テープ持ってるから、貼ってあげようか?」 「あのね、なおちゃんが、葉っぱ貼ってくれたの!」。またまた、わけのわからないことを言うので、私はちょっとイライラ。そんな葉っぱなんか貼って、と言いたい気持ちを押さえて、「葉っぱ貼ってもらって、良かったね!なおちゃんって、お医者さんみたいだ!すごいんだ!」と、大げさに、少しからかって言うと、「そうだよ!すごいんだよ!あとで葉っぱとったら、血が止まってたんだよ!この絵、その時の葉っぱの絵なんだよ!赤いのは、血の色だよ」。緑のぐじゃぐじゃに、赤のぐじゃぐじゃの線の、いたずら書きのようだが、上手い下手は問題外だ。 ころんで痛かった時の気持ちや、友達の親切心、心配してくれた気持ち、血が止まって二人で喜んだこと、嬉しかった気持ちが、緑と赤のぐじゃぐじゃの線に塗こめられている絵だ。「すご−く、いい絵だ!素晴らしい絵だよ、有難う!」と褒めてあげると、「ぼく、忙しいんだ」と、得意満面の笑顔で走り去って行った。 後姿を目で追いながら、あんなに喜んでくれるとは、と眩しい気持ちにさせられた。その時の場面や状況のことだけで短絡的にならずに、結論を急がずに、その現象や行為の奥に潜んでる心を読んで見るよう、心がけたい。 川の水の渇水は、違う所に貢献している、そう思うと別な気持ちが沸いて、ちょっと成長したような気分になる。 

やめるべきか、うるさい「おやじ」 2004.9.8
宮沢橋は片側一車線の狭い橋。その分広瀬川が車上から眼下に望め、船にでも乗ってるような優雅な気分。橋の上での渋滞信号待ちも、川の風景のお陰でさほど苦にはならない。 と、前方の車窓から、ひらひらと空き缶。川にポイ捨てだ!  以前の私なら注意するところだが、ちゅうちょしてしまった。 実は、私は、うるさい「おやじ」だったのだ。三人の子持ちで、小さな店をやっていた。店の前は通学路になっていたので子供達の出入りも多い。このおやじは異常に正義感が強く、無差別に、誰の子供であろうと、悪いことは注意する。時には大人にも同様ことをする。 大声を上げたり、追いかけたりもするが、素直に反省したり、きちんとした子供は褒めてあげる。ご褒美に駄菓子や飴もやる。 学校の帰りで、雑誌を立ち読みの子供に「家で心配するから、一度帰りなさい」と促したら、商品をガラガラと崩して走り去った。私は大声で注意する。 「何もしてないのに、あの店のおやじに怒られた」とでも報告したのだろうか、「うちの子が、何をしたっていうんですか!」と切り口上の母親。 小さな店のおやじは、頭を下げる。 万引きをした子供の若い母親は、「万引きを誘発するような店に問題がある」と理論騒然。あやまりも弁償もしない。おやじは、また頭を下げる。 
子供は反省しているのに・・・・・。勝ち誇ったような母親の鋭い視線に、つい、その子供に同情してしまう。  私は感情的にやっているわけではない。地域の大人の責任、義務だと思っている。 やり切れない気持ちの中、「何かあったら、うちの子もしかって下さいね」と、明るいお母さんの声に救われた。化粧してなくても美人に見えた。 怒られても、子供は「おじちゃん!」と元気で可愛い。遠足や旅行でのお土産まで持ってきてくれる。 でも、うるさいおやじは、損な役。商売上も問題だ。ものわかりのいい、静かなおやじに変身しようか、と悩んでしまう日々である。 広瀬川の空き缶ポイ捨て、やっぱり注意すべきだったかなあ、と、またまた悩んでしまうが、せめて自分はそうしないこと、と無理に納得することににしたが・・・。  

やってくれない、ではなく、やってみよう 2004.8.10
川や自然環境などで不都合があると、「行政、役所は何もやってくれない」など、とかく行政に責任追求をしがちだ。行政がやってくれない、と思う前に、自分は行政の為に、何をやったのか、と一歩下がって冷静に考えることも必要だと思う。 私は障害のある長男の将来を念頭に会社を設立し、狭いが店舗と作業所も構えて6年を過ぎた頃。仲間を募ってネットワークも作り始めた。店内の複数の募金箱も、5年余りの沢山の善意が詰まった。活動資金も少しはたまり、やっとの思いで、長男の学校から実習生を受け入れることになった。恩返しが出来そうで、少し誇らしげに気持ちが緩んだ。  そんな矢先に事務所荒らしで活動資金が全額、無慈悲にも募金箱の中まで根こそぎ盗まれた。郵便切手、つり銭用の小銭まで。更に、手書きの「募金のお願い」や「活動の趣旨」が、壊された貯金箱と共に床に散乱、惨めな気持ちになった。 刑事さんが「ここまでやるか」とあきれていた。  今日まで私は、行政の力を借りずにやってきた。「行政がやってくれない」という意味ではない。やってもらうことより、自分が今、何を出来るかを考え、自己流でも精一杯やってみることが大切で、行政や他人の力はその次だ、と思っているからだ。 東南に遭遇した私にとっては、せっかく積み重ねた、さいの河原の石を鬼に崩された形だが、また最初から積んでみたい。今度こそ、雨風をもしっかりと見据えて、緩むことなく、謙虚でも確実な石を積み重ねたい。 地道な努力は今の時代にそぐわないかも知れないが、正々堂々、やり直そう。金庫は壊されても、私の魂は壊れない。

良きせぬ出来事 2004.8.5
いつもはおだやかな川も、台風や大雨になると、予期せぬ出来事に遭遇する。川の水は透明な水色、私達をいやしてくれるとの認識が、手のひらを返して、茶色の濁流と轟音、流木、と一瞬にして恐怖感にさいなまれることもある。 私はハンデイのある長男の将来を考え、脱サラで小さな店舗を構えたが、予期せぬことの連続で戸惑ったことがある。  10円が中心の「駄菓子」を置いたが、こっそり持っていく子供が結構いる。ふだんは、お利口で、いい子供なのに、「まさか」と思った。 店の前の公衆電話にメモ帳とボールペンを置いたが、朝になると、なくなっている。その代わりに、コンビニのゴミと、タバコの吸殻が、どっさり。いまどき貴重な公衆電話なのに、と思いつつ予期せぬッ清掃作業にとりかかる。  店舗は旧国道沿い。ちょいと一休みのつもりで、椅子と観葉植物を並べたが、誰かが車で持ち去ってしまった。夜間ではなく白昼に持って行かれるとは全く予期してなかった。 暑い日や、ほこりの立つ風の日には、水を打つが、「靴がぬれる」と怒鳴り声。喜んでもらえる、と思ってたが、予期せぬ言葉にショックを受けた。 私達は地域の人たちの理解と応援が必要なので、地域のためにと精一杯やってきたが、予期せぬ出来事と言うより、裏目にばかりでてしまう。自信がなくなりかけた。   もう、やめよう、こんなこと、と思っていたら「椅子があって助かっていたのに、なくなったようなので」と不用になったベンチの寄付。仕事帰りのペンキ屋さんが、余ったペンキできれいにしてくれた。 見知らぬサラリーマンからは「もらい物ですが」とボールペンが届いた。以前に電話を使った人らしい。 お母さんから話しを聞いた小学生の大輔君は、カレンダーの裏紙でメモ帳を一生懸命作って来てくれた。泣きたいくらいうれしかった。今度は嬉しい予期せぬ出来事だ。 歌の文句の「人生はワンツーパンチ、三歩進んで二歩下がる」を地でいっている。予期せぬことの連続で、道のりは遠くて険しいが、やけにならず、あせらずゆっくり、堂々と歩いていくことにしよう。

本当の幸せ 2004.7.30
娘が小学生の頃、村八分的な「いじめ」にあっていることがわかった。「先生に相談しようか?」「別な子がやられちゃうから、寂しいけど・・・今のままでいい」と娘。  運動会の徒競走で、背骨のハンデイのため、装具装着で走る娘は六等賞(ビリ)が指定席。「せめて五等になりたいね」と話していたら、なんと四等賞!親バカの私は、夕食時にそれを話題にして、悦に入った。すると娘が突然「今まで私、ビリで悔しかったのよ!だけど、きょう私の為にビリになった人がいるの・・・・・」と涙。他人の痛みのわかる思いやりの有る、やさしい人間になろう、と日頃は話していた父親の私だが、こうなると、たじろいでしまう。受験で不合格になっても、「私のお陰で合格できた人がいるのよ」とでも言いかねない。私の職場は、相変わらずの赤字続き。その分、どこかの会社に貢献しているのだ、と居直っている。誰かの悲しみの上に立つ幸せはつらい。幸せの上に立った幸せをつかみたい。それこそが本当の幸せだと、私は思う。川の流れが、とうとうと清流を保つことで、いろいろな恩恵があり、さまざまな「幸せ」もあると思う。そんな広瀬川の流れのように、幸せになれれば、と思う 

私のもの 2004.7.9
参議院選挙を目前に、候補者や政党の政策がマスコミを賑わしている。無党派の私だが、生活が厳しくなったこともあり、真剣に政党、候補者を吟味している。彼等の言わんとすることは、共感することもあるが、心の奥にしっくりとは入ってこない。「私達の年金は・・・」「私達の将来は・・・」「私達国民は・・・」。と枕詞に、一人称複数の「私達」を乱発するあまり「私」という、候補者自身の存在が曖昧に思えてくるからだ。「私達」、にしておいて、逃げ道を作ってるの?、と意地悪く勘ぐったりもする。 いかにも民主的で、調和を同調する「私達」。でも彼等の姿が見えにくい。「私達の広瀬川」も当然のことだが、「私の広瀬川」、つまり「私のもの、私のこと」と思えば、他人事ではなく、愛着も真剣さも強固なものになるのでは、と視点を変え、改めて考えてみた。 

当たり前に感謝 2004.7.1
   10年前、仙台に新しく来た人達の会が発足、仙台をより良くすることが趣旨だ、というので参加してみた。話し合いの内容は、「横浜から来たけど、地下鉄が1路線だけで、地下鉄がある街だなんて、笑っちゃいます。」「杜の都と言うけど、そんな資格は仙台にない。盛岡が本家だ」「広瀬川を自慢してるけど、たいしたことない」「運転マナーが悪い」「仙台の人は、山形を植民地のように思ってる」等、出るわ、出るわ、まるで、仙台をねたんだ、こき下ろしの会で、私は「仙台が地元です」と言える雰囲気ではなかった。生まれて初めての経験だった。しかも会場が仙台市民会館で。
  確かに、仙台の街に欠点はあるだろう。広瀬川も、しかり。でも、欠点ばかり指摘し、自分が住んでいた町を自慢、自我自賛するのはどうだろう。仙台、広瀬川の良い所を認め、そこから何かを見出す努力を怠ってはいないだろうか。ふと「人の欠点が見えるのは、それは、あなたが無意識にそれを望んでるからだ」と、リンカーンの格言を思い出した。
  清流を好む「かじか蛙」「鮎」の姿が当たり前の広瀬川。水道の水も広瀬川。「都会なのに美味しい」と、ある転勤者。当たり前のこと、と思っていたが、その当たり前を維持、改善に努力している人達、正に影の力のお陰でもあることを、忘れてはいけない。そんな思いと、感謝の気持ちを胸に、改めて広瀬川に接してみよう、と思った。   

琵琶首丁 2004.6.16
評定河原橋を渡って左手が琵琶首。そこに昭和30年代の初めまで、広瀬川の淵沿いに動物園の廃墟があった。猿山跡は危険なので、「子供達は行くな」と言われてたが、動物園跡地というワクワクするような、ロマンのような雰囲気と、スリルを味わうには格好の遊び場だった。私達が「琵琶首で遊ぶ」とは、そう云うことでもあった。琵琶首の地名の由来を、果物の「びわ」に例え、北がくびれ、南が袋状になってるので、「琵琶首」と言う話しもあるが、40年以上も前だが、琵琶首在住の古老に「動物園跡地から、大橋の近くまでの範囲の地形が、ベべンべベンの楽器の「琵琶」の形をしてるからだ」、と私は教わった。明治時代から住んでたお年寄りの話しなので、私はそう信じている。「琵琶首丁」だ。「町」でないのは、 その昔は、侍が住んでいたので、彼等にだけ許された「丁」をつけて、商人、町民と区別をした、と少し誇らしげな今野じっちゃんの顔。今でも忘れない。 ちなみに、隣の片平も「丁」。一番町も「一番丁」だった。(小学校の名前にその名残りを感じる)。さらに、 琵琶首の先端の淵に、仏像が流れ着き、その場所を「虚空蔵淵」と呼ぶようになったそうだ。思わず厳粛な気持ちで、背筋がシャンなる。それから40年以上過ぎ、向かい岸の経ケ峯の断崖絶壁(八木山の吊り橋と共に、自殺の名所だった)、そして瑞鳳寺と共に、今も変わらぬ雰囲気を漂わせる広瀬川、虚空蔵淵。 歴史を物語るかのようだ。それが私達を惹きつける魅力の一つでもあろう。奥の深い川、そんな気持ちが、いつしか私の脳裏を支配し始めたようだ。 広瀬川への思いはとめどなく続く。  


お霊屋橋 2004.6.10
  幼い頃、米ヶ袋の銭湯を利用していた。昭和30年頃だ。評定河原橋付近から結構距離があるが、お霊屋橋を渡ればすぐなので、本間様のお屋敷を過ぎ、かんの醤油店、柳川洋服店が見えると、ほっとしたものだ。お霊屋橋を渡ると左手に、若草貸本店、私達は常連客。威張って通る。向かいには銀玲寿司、急いで通る。「大人になって金持ちになったら連れて行くよ」、と母を喜ばせながら右に入ると、すぐ銭湯だ。 銀玲寿司の下の広瀬川は、かなりの深みになっていて、関さんの、じっちゃんから「あそこには鰻の主が住んでいる、昔昔、お坊さんのが...」と、おごそかに伝説を教えてもらい、神聖な場所だと思っていた。 だから橋の下の貸しボートで遊んでも、そこには近づかなかった。深くて危険な場所なので、子供達の事故防止のために話してくれたんだろう。 今だったら、「危ないから行ってダメ!」と注意するところだが、昔の大人は恐かったが、巧みに優しかった。 そんな優しさに包まれながらの銭湯の帰り道、お霊屋橋の川風が子供心にも心地良く感じた。 本間様のお屋敷が取り壊された時、涙があふれたお霊屋っ子の思いで話しでした。  


評定河原橋一銭橋 2004.5.31
大雨の後の増水。ゴーゴーといつもと違う川の音に、不安を感じ一銭橋に行くと、沢山の人が心配して橋を見に来ていた。茶色の濁流が轟音とともに一銭橋をかすめていた。上流からは材木が次々とぶつかっては流れて来る。「追廻の家が流されたんだろう」、と大人の声。 普段はおとなしい広瀬川も、大雨の日は、人が変わったように牙をむく。 「おとなしい人ほど、怒ると怖いんだよな」、とまた大人の声。 雨もやんだ翌日、広瀬川は元の清流に、何事もなかったように流れていた。一銭橋も無事だった。そして、いつものように早川牧場から牛乳配達で、関さんのじっちゃんが、布袋に牛乳瓶をカチャカチャさせながら一銭橋を渡って来た。その日は橋の上から見た夕焼 が、やけにきれいに思えた。その後、木製だった一銭橋がコンクリートに変わり、欄干には評定河原橋と記されていた。でも、関さんのじっちゃん、ずっと、一銭橋と言い通していた。私達は、近くの穴蔵さん(神社)の相撲大会に備え、河原で練習。昭和30年代のことでした。 

鯉のぼり 2004.4.23
 桜が終わり、空を泳ぐ鯉のぼりの元気な姿が目に付くようになった。
鯉のぼりは、江戸時代の初期までは、鯉の姿はなく、吹流しや、のぼりだけのものだった。江戸時代の中頃になって、鯉は出世魚といわれ、それが、出世の象徴となり、やがて子供の出世を願う親が、鯉を立てるようになり、今日の鯉のぼりに至った、と言われてる。
 鯉が出世魚と言われるようになったのは、中国の伝説で、黄河の主流を鯉がのぼり、竜門の滝をのぼることができれば、やがて天にのぼりその鯉が竜になる、といわれたから。
 広瀬川に鯉がいたなら、三居沢の滝をのぼり、天にのぼって竜になってくれるかな。そうなれば新名所誕生だ。そのシンボルとして広瀬川に鯉のぼりをかけよう、などと勝手に思っている。賢淵など広瀬川にはいろんな伝説もあることだし。
新聞などで日本各地で不要になった大量の鯉のぼりを、川や公園などに立てているのを目にする。青空に悠々と泳ぐ姿は見事だが、遠隔地が多く都会の人間には縁がない。そこで、百万都市の真ん中を流れる広瀬川に大量の鯉のぼりが泳いでたら、さぞかし見事だろう。広瀬川にも似合うと思う。
通勤、通学、買物の途中で気軽に目に触れる。いろんな人がいろんな思いを巡らせるだろう。 仙台で新生活を始めた人達の励みにもなるだろう。やっぱり、あるといいなと思う。
 願わくば、鯉のぼり、もいいけど本物の鯉。青葉城に行く途中、大橋から鯉の泳ぐ姿が見えたら、「ああ、城下町、情緒があるね」なんて言ってしまいそう。
 鯉よ来い来い。みんなで出世しよう!

記念撮影 2004.4.9
 広瀬河畔の桜を背景に、記念撮影をしている人がいた。入学式の帰りだろう。
児童心理学の吉岡たすく先生の話だが、ある小学校の入学式に招待された時のこと。新入生の記念撮影で、若い担任の先生が一生懸命、子供達の服装や姿勢に気配りしていた。
ところが一人の子供が、上着のボタンをはずして、前をはだけて両手をポケットに突っ込んでいた。先生が飛んで行って注意して直しても、先生が戻ると、またボタンをはずしてその姿勢。そんなことを何度も繰り返し、子供はやっと行儀良くした。汗をかいた先生も一安心。そしてシャッターが切られる寸前、その子は機敏に上着の前をはだけ、腹を突き出し、見事に記念撮影は終わった。
 普通なら、躾の悪い子供だな、と眉をひそめてしまうが、吉岡先生は、その子供に声をかけた。「上着のボタン、かけるの嫌いなの?」「違うよ、ぼく、きょうから1年生なんだぞ!」「だから先生がボタンかけなさい、って言ったじゃないかな?」すると、「違うよ、これだよ!」とズボンのベルトを指差して「1年生になったから、これ父ちゃんが買ってくれたんだ。だから、写真に撮ってもらったんだ!」
 この子は、自分の父親、身内であっても、自分以外の人間の厚意に応じようとしたのだ。その心を引き出した吉岡先生も見事だと思う。入学式の記念撮影の季節になると、この話を思い出す。さわやかな気持ちで思い出す。

桜を読む 2004.4.9
 広瀬橋の河原町側の河畔にある数本の桜が咲き始めた。仙台でもっとも早く満開になる桜並木だ、と地元の人は胸を張る。花見の陣取りがないのは近くに公衆トイレがあるせいか、などと勝手に思っていると。そこにお花見のグループが登場。外出が困難になった同級生を励ましたくて、とみんなで車椅子を堤防下の、桜が格好の場所まで運んでいた。「トイレが近くにあるから障害者には助かるんだ」と言う。自動車の騒音の合間だけど水の音も聞こえるし、ここに桜の木を植えてくれた人に感謝したいよ、と続いた。
 50代の花見客。歓声が、向こう岸まで届くかのような暖かい午後の堤防。
根岸側の宮沢橋のたもとの桜の木。実に見事な花で、交通渋滞の目を休めてくれる。美智子妃殿下のご成婚の記念に、とだれかが植えたらしい。桜の木は記念樹が多いようだ。目を移して、この桜の木はどんな思いが込められたのだろう、と思わず立ち止まる耳元に、せせらぎと野鳥のさえずりが心にしみる。広瀬川。

川遊びは社会勉強 2004.3.30
 川の水が温んでくると、水の中の生物も活動を始める。メダカや小魚が群れをなして泳いでいるのを見つけると、今までどこにいたんだろう、と不思議に思う。
 小学生の頃、メダカや小魚の群れを見つけた男の子たちは、さも大手柄のように、興奮して大声を上げながら、捕獲しようとする。しかし、網やバケツを用意してきた訳でもなく、逃げられてばっかりだ。
 大騒ぎの割には、難儀していた男の子と比べて、女の子達は、実に冷静だ。
 あの頃の女の子は、なぜか、、ちょうちんブルマーの上にスカートをはいていて、太ももあたりのゴムの部分にスカートを挟み入れスカートが濡れないようにして川に入っていた。そして、ハンカチを網の代わりにしてメダカや小魚を上手にすくっていた。しかも河原から空き缶まで見つけて、それに入れていた。実に臨機応変、用意周到、賢いものだ。
 私達は、ハンカチは服装検査の時の物だと思っていたし、ズボンも膝までまくり上げるのが精一杯。運良くメダカを捕らえても、「何さ、入れんのや〜」と大あわて。でも女の子たちは絶対、空き缶を貸してくれない。
 当時、子供たちの男と女は別々に遊び、妙な対抗意識を持っていた。特に、ドッジボールの場所取りでもめて先生に言い付けられたりした。先生は女の子の味方だと思ってた。
 河原では、場所取りのトラブルもなく、意識しながらも別々の縄張りで遊んでいた。
 そのな中、今度は女の子たちが大騒ぎ。生まれたばかりの子猫が流れてきたのだ。(当時は子猫や子犬が産まれると、処分に困って川に流す人がいた。生きていれば、拾って連れて帰り、親に叱られながらも家で飼ったりした。我が家の犬も川で拾ってきた。)
 それをきっかけに、男の子たちも女の子たちと合流して対策を考える。一人っ子のヒデオ君が引き取ることになった。ジュン子ちゃんが、空缶を貸してくれた。学校で習ったばっかりの歌を大声で歌いながら、ワンパク達は家路に着く。後ろから、歌詞の間違いを指摘する女の子達。仲がいいのか悪いのか。今も昔も、女の方が賢くて強い気がする。
 広瀬川の河川敷で子供たちは、遊んでいることが社会勉強の一つになっていた。


 今、できること 2004.3.23
 私の長男は知的障害者症。でも表現の仕方や、頭の中のコンピユーターの仕組みが大多数とちょっと違うだけ。障害者と言われても生きる権利を持っている。だから疲れてもどこにでも連れて行く。中傷や好奇の目にはもう慣れた。
 我が子が障害者のおかげて、いろいろな経験ができた。いい人にも巡り合えた。その子供がどんなことでも一歩前進すると、たまらなく嬉しい。笑顔を見せると、もっとうれしい。だから、希望を持って生きている。
  他人の力は当てにしてもダメだと肌で感じるが、被害者意識は持ちたくない。
誰もしてくれない、と思うより、自分が出来ることを自分なりにやればいい、と思う。
 広瀬川は、仙台市民の自慢だが中州や河口堰など、、諸問題も抱えている。
それでも、私達の知らないところで、いろいろな立場の人達が広瀬川を守っている。
今自分ができること。たとえば、広瀬川の散策では、ゴミを持ち帰ったり、植物にも優しく接する。自分の家の庭と思って接するだけで、川を守る一端を担ったことになる。
  河原で春を告げるネコヤナギの背景には、リビングルームより、宮沢橋付近の広瀬川がよく似合う。ちょっと一枝、と手を伸ばしたくもなるが、そのへんにしておこう。鋭利な刃物で、ごっそりと刈り取られたネコヤナギの枝は悲惨だ。広瀬川は、河原や河川敷中州などの風景とのバランスが絶妙だ。川だけでなく、その周辺にも優しくしたいものだ。
 今の自分の障害者支援活動は、さいの河原に石を積んでるのに等しいが、崩れても、笑われても、一生懸命確実な石を積み上げ、そして、何とかして知的障害者の人格を尊重し、個性を生かせる「施設」じゃなくて「会社」の運営に努力をしている。
 私は知識も組織も資金も何もない、ごく普通のお父さんだ。でも、よろめきながらも頑張って何とかしたい。親が死んでも、障害を持った子供が、普通に一人でも生きていける社会の一端をつくりたい、願いつつ夜中まで仕事をしている。
 それが徒労に終わっても決して後悔はしない。父親の務めだと思う。
 仙台を離れた人にとって、広瀬川、という響きは郷愁と、ちょっとした、誇りさえ覚える。それを守るのは、仙台に住んでいる私達の務めだと思う。川を大切に思う気持ち、優しく見守る気持ち、そんな小さなことの積み重ねが、広瀬川を守る源になることだろう。



川は自然のゆりかご 2004.3.5
 広瀬川の河川敷、河原を散策していると、豊かな自然と静寂に、100万都市の中にいることを忘れそう。街中から姿を消した沢山の昆虫や生き物に「お前たち、ここに来てたんだ」と思わず声を掛けてしまう。ビオトープの世界が待ち構え、童心に戻ったりもする。河原のあたりに、思わぬ場所の水溜まり。そこは、小さな生き物のゆりかごです。おたまじゃくし、ヤゴ(トンボの赤ちゃん)、あめんぼう、水すまし、がいたりします。海の干潮時に取り残された岩場の水溜りに、小魚や小さなカニがいたりする。そんな感じの、ほのぼのとした光景にも出会えます。 
 広瀬川の河川敷の水たまりは、適度な増水と伏流水により真夏以外、干し上がることは稀で「こんな水溜まりに」と思っても、蛙たちは本能的にそれを認知して卵を産み、おたまじゃくしが泳ぎ、そして、沢山の蛙が育ちます。そして、その蛙を目当てに、鳥などが集まって来るのです。蛙を枝に刺したのは、モズの仕業です。
こうして広瀬川の自然体系が形成、維持され「きれいな川」を誇示している訳です。これは人間の健康、精神衛生にも有意義なことです。人為的な物を加えない自然の姿こそが自然環境を維持する基本です。生活流域の川なので、多少のゴミ、汚れは仕方ない。その場所にすら微生物など、そこを住みかとする生き物も出てくるでしょう。そして、それを餌とする魚が集まり、その魚を食べる水鳥の姿が見られる、そんな広瀬川は正にビオトープの教材にも匹敵する都会の自慢できる川です。
 ところが、信じられないことがありました。真夏でもないのに水溜りが干し上がって、おたまじゃくしが、カラカラ。もうすぐ蛙になるはずだったのに。水量が少なくなった川の中央部には、千乾し状態のナマズが。川底で優雅に暮らしていたはずなのに。河口堰の手前には、大量のアユの死骸。そじょうするには水量が足りなかったのだろう。体長が10cmまで育ったそじょう中の天然アユ。1000尾以上もの死骸を目にしてもったいない、と誰しもが思った。
 100万都市で、アユつりができることが自慢の広瀬川として、憂慮する出来事です。
私が幼い頃、あんなに大きな中州はなかったし、水量も多く、広瀬橋付近の川がどうして石だらけになったんだろう、どうして以前のように、適度な川の流れが保てないのだろうか、私が幼い頃の広瀬川が無性に懐かしく思われます。
 仙台にある広瀬川だが、下流は国、上流は県の管轄とのこと。仙台市の川ではないことが、問題が簡単ではないことを示唆する。
 ある村祭りで、若者たちは集まったが、足腰が弱く、重い神輿が担げない。年寄たちは「これじゃ祭りもできない」と嘆いている。若者の足腰を鍛えなければ、祭りは断念するしかないのだろうか?答えは簡単。神輿を軽くすれば、こと足りる。
 広瀬川の水量にも、こんな簡単な答えはないものだろうか。